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投稿日: 2015年5月14日
南大阪の景色 一回目「法道寺」
カテゴリー: 南大阪の景色
今回より始まりました新企画「南大阪の景色」。
不定期更新ですが、堺市以南の南大阪の景色を紹介してまいります。
記念すべき一回目は、大阪府堺市南区にある高野山真言宗の寺院「法道寺」です。
河泉地蔵札所の23番。本尊は薬師如来。寺伝によると7世紀中ごろにインドより渡来した法道(空鉢)仙人によって開かれたとされています。
鉄の宝鉢を持っていたことから、空鉢(くはつ-)、空鉢仙人(からはちせんにん)とも呼ばれる。6-7世紀頃、中国・朝鮮半島を経由して、日本へと渡ってきたとされる。播磨国一帯の山岳などに開山・開基として名を遺す、数多くの勅願寺を含む所縁の寺がみられる。
西日本を中心にかなり活躍された人物のようですね。
中門
まずは中門。本寺の入り口になります。
堺市指定有形文化財である一対の金剛力士像が安置されています。また内側には木造の二天立像が安置されているのですが、今回は拝見することができませんでした。
中門の前にある案内板には以下のような記載がありました。
当寺は、所蔵の縁起書(延長8年(930)2月9日付写本)によれば、天智天皇9年(白鳳10年(670))、法道仙人が当山で飛鉢(ひはつ)の法を行じ、その霊験を聞き及んだ天智天皇の勅願によって、閑谷院長福寺(かんこくいんちょうふくじ)として開創されました。この鉢を収めた山を鉢塚山といい、これによって山号を鉢峯山といいます。
南北朝時代には、楠木正成の一族であった橋本正員(まさかず)の菩提寺となりました。その後、8代将軍徳川吉宗の嫡子が長福丸(ながとみまる)と名付けられたことにより、同名であることをはばかり、法道仙人の開基であることから享保元年(1716)、法道寺と改名しました。
往時は多数の搭頭寺院を要する大寺院でした。
境内にある建物のうち、鎌倉時代後期の食堂、南北朝時代の多宝塔は、ともに国の重要文化財に指定されています。また、南北朝時代に制作された仏画「十六羅漢像」(重文)、高麗時代の「阿弥陀三尊図」(市指定)、鎌倉時代弘安6年(1283)に造立された金剛力士像(市指定)など数多くの文化財を有しています。
~中門前の堺市設置看板より~
金堂
法道寺の中心をなす金堂です。
普段は閉まっていますが、お盆の時期などには中も拝見できます。
食堂(じきどう)
鎌倉時代後期に建てられた国の重要文化財です。
多宝塔
南北朝時代の中頃に建てられた、こちらも国の重要文化財です。
大師堂
お堂の周囲には四国八十八箇所の各寺院の名前が刻まれた石が敷き詰められており、
周りを一周すると簡易四国お遍路が体験できます。
境内にはいろいろな時代の建物が建ち並んでいます。鎌倉時代の終わりに建てられた食堂(じきどう)は、僧侶が法会(ほうえ)のさいに食事などを行った場所です。傾きがゆるやかな屋根や柱上の簡素な組物(くみもの)などは、奈良時代以降に日本で展開した建築様式の特徴です。現存する食堂は、全国的にもまれで大変貴重です。
南北朝時代の中頃に建てられた多宝塔(たほうとう)は、どっしりとした安定感のある建物です。多宝塔とは塔身が円形の一重塔に裳階(もこし)という庇(ひさし)が付いたことを起源とする建物で、上層の丸い漆喰部分の亀腹(かめはら)はその名残であるとも考えられています。
下層の組物の先端の握りこぶしのような飾りや、上層での扇状に広がる垂木配置などは、禅宗が鎌倉時代の初めに中国より伝わり、日本の建築様式が徐々にその建築様式の影響を受け発展したことを示しています。また上層の組物にほどこしてある鯱の彫物や亀腹の上に蟇股(かえるまた)を配置するこのなどは、大変珍しい意匠で細部にも特徴がある建物です。
金堂(こんどう)・大師堂(だいしどう)・中門(ちゅうもん)は江戸時代に建てられた建物です。屋根を大きく作り細部に彫物を多用するなと、江戸時代の寺院建築の特徴がよくあらわれています。
いずれの建物も周辺の緑豊かな環境によく調和し、落ちついた景観を今に伝えています。
~1994年3月 堺市教育委員会 境内設置の看板より~
まとめ
いかがでしたでしょうか。
簡単な解説ではありましたが、法道寺に興味を持って頂ければ幸いです。
アクセス方法は南海バスや駐車スペースもありますのでぜひ一度立ち寄ってみてください。
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